「永遠に不滅の岡山盲学校」 柳島信男

その5 原尾島への移転問題

昭和26年2月だったと思う。朝日新聞に「盲聾分離」の記事が掲載され,「盲学校は東商業高校原尾島分校跡に移転内定」と報じられて,蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。さっそく,外郭団体のPTA・同窓会,これに生徒会などが反対運動に立ち上がり,新年度早々の4月12日より,無期限の同盟休校に入った。

筆者は4月15日の午後,現地を視察するため,乳飲み子を背負った家内に手引かれて,現地に向かった。西大寺鉄道に乗るため,後楽園駅まで歩き,次の国富駅で下車し,山裾の小道を急いだが,途中山水が道路を横切っているのには驚いた。墓地を過ぎ,鉄条網を張り巡らした現地に着いたが,最初に思ったことは,敷地が7千坪あるとはいえ,三方が山に囲まれており,日当たりが悪いのではないかということであった。岡山電気軌道の国富バス停まで徒歩20分,同じく原尾島バス停まで15分というから,通学・通勤に不便なことは確かである。この日の帰途は,当時の競馬場の側を通って,バスで帰宅した。

ここで,後日の参考までに,岡山県当局と盲学校側の意見を記しておこう。

(1)西古松の盲唖学校東側の水田を購入して,盲学校を建ててほしい。
 答え……それは不可能である。(しかし,後日盲学校が移転してから,県は400坪を購入して,聾学校の校庭に当てている。これが現在の岡山県視聴覚障害者福祉センターの敷地となっている。)

(2)通学・通勤に不便である。
 答え……専属のスクールバスを登下校時に運行し,児童生徒はもとより,教職員も利用してよい。(教職員については,木村校長時代に,勤務体系の変更によって,乗車が不可能となった。)

(3)聾学校を原尾島に移転した方が得策ではないか。
 答え……その場合は,スクールバスが2台必要となり,移転費についても,盲学校なら900万円,聾学校なら1300万円必要で,400万円の増額となる。

(4)聾学校が西古松の敷地では狭くなり,将来移転することにはならないか。
 答え……現時点では想定できない。(事実移転が必要となり,やがて聾学校は市内土田に移転することとなった。)

(5)臨床実習に必要な患者が,原尾島では確保できないのではないか。
 答え……事前調査で,毎日17.5人の患者があるとの回答を得ている。

6月になって,PTAの総会を開き,同盟休校を一時解き,勉学に移った。8月31日には,バスをしたてて現地を視察し,9月に情勢分析を行った結果,再び同盟休校に入った。12月になって,国富友次郎(盲学校の2代目校長)他、二名のご斡旋により,次のような和解が成立した。

(1)専用のスクールバスを運行する。
(2)通学路を整備する。
(3)移転後,運営上の支障が生じた場合は,三木知事の在任中に再移転を考慮する。

こうして原尾島移転は実施され,昭和27年2月17日私たちは西古松校舎を後にした。その後,三木岡山県知事は,原尾島校舎を何度も訪問されたり,県北で捕獲された猪の肉を贈られたり,当時は貴重品であったソニーのテープレコーダー3台を盲人協会に贈呈されたり,逝去後もご遺族の手によって,校地を一周する健歩道の建設経費の一部を寄付されるなど,盲学校への厚意を示された。その中にあって,特に思い出に残るのは,校門の「岡山県立岡山盲学校」の砲金製の表札である。これは,三木知事ご自身の筆によるものであり,忘れてはならないことの一つである。

さて,原尾島校舎の建築計画は,火災に懲りて,できるだけ2階建てを避けること,佐賀盲の校舎に習い,教室の南側に昇降口を設けて,上履きのままでも庭の芝生に降りられるようにしたこと,教室北側の窓は高くして廊下の騒音を避けたこと,校庭と校舎の用地を入れ替えたことなど,いろいろな面で工夫がなされたが,運動場に直線100メートルのコースはどうしてもとれず,必要があるときには,通路を利用することになった。

校舎の外壁はモルタル仕上げとしたが,廊下の角柱は危険だということで評判が悪く,後に柱を結ぶガイド用のパイプを取り付けることになった。地名が大砂場というだけあって,運動場の水はけはよく,雨上がりでもすぐに運動会を行うことができた。

かくして,本館・中高等部棟・小学部棟・実技棟,さらに朝日高校から移築した特別棟・図書館などが建てられたが,全て木造の校舎であった。寄宿舎も全て木造で,平屋建ての建物が5棟あまり建てられ,後に校舎より早く,近代的な建物へと建て替えられていった。

昭和50年代に,市内土田に移転した聾学校は,宇野バスの停留所の側であり,JRの東岡山駅も近く,交通の便のよい敷地が与えられている。歩行に困難な視覚障害者が通う盲学校も,1日に1便でよいから,学校の近くを通り,沢田橋経由で二本松へ行くバス路線を設けてもらいたいものである。