「永遠に不滅の岡山盲学校」 柳島信男

その3 西古松時代

北方といえども仮の住まいで,昭和5年(1930)になると新校地の情報が入ってきた。候補地はいずれも宇野線大元駅付近で,一方は駅から踏切を渡って徒歩5分,他方は踏切という危険はないが徒歩10分ということなので,私たちは前者に賛成した。

昭和5年10月1日,現地で地鎮祭が厳かに行われた。敷地面積は3233坪(10668.9平方メートル)で,東西に長い長方形の水田が校地で,ここに国鉄の岡山姫路間の機関車が消費する石炭殻で埋め立て,表土で固めたものであった。四方は塀を設けず,1メートルぐらいの高さの花壇を作った。敷地の周辺には潅漑用の水路が流れ,運搬船も随所にみられた。従って,校門に達するにも橋を渡らなければならなかったのである。

昭和7年(1932)3月22日,網の浜の放送局見学後,桜橋付近を渡し船で渡り,西古松の建築現場を見学したが,すでに学校はほとんど完成していた。当時は昭和恐慌の真っ只中で,予算額が1600円ほど余り,そのお金で40畳敷の礼法室を増築したといわれている。6月に入っていつの日か忘れたが,ときならぬ雹が降って,せっかくはめた新校舎の窓ガラスが割れるというアクシデントが発生したが,6月15日に予定通り移転は無事完了した。校舎の概略は次の通りである。

校門をくぐり,数メートル進むと本館玄関に達する。本館は南北幅4間(7.2m),東西幅45間(81m)の長方形で,北側に玄関があり,校舎の北側に,東西にはしる1間幅の廊下があり,その南側に3間四角の教室が並んでいた。玄関正面には南側へ出るための通路があり,その左右に2階へ上がる階段があった。右側(西側)の階段したには電話室があり,ここを通り抜けて西隣の事務室にも入れた。事務室の西が校長室,その西に数室聾部の特別教室が続き,西の端に医務室(今風にいえば保健室)が設けられていた。医務室と棟を別にして礼法室が立てられていた。

本館東側半分は盲部専用で,宿直室・治療室(2室)・職員室・教室(2室)があり,階段下は理髪室であった。2階には東の端に音楽室があり,以下西へ教室が続いていた。1階玄関の昇降口には,一方に60人分の下駄箱(土足用1と上履用1),反対側に傘立て・杖立兼用のものが準備されており,トイレは建物の外にあった。

参考までに他の建物の概要を記すと,聾部用教室12(2階建て)1棟・盲唖分離後2教室増築,木工室・点字製版印刷室・倉庫などがあった。なお,寄宿舎については,引き続き民家を3軒借り受け,昼食は弁当箱に積めて学校まで運んでもらっていた。寄宿舎の本社は黒住神社の鳥居の南約100mの所にあったので,黒住神社に散歩がてら,よくお詣りしたものである。

木工室の南側は寄宿舎用地として確保してあったが,中国電力の高圧線の鉄塔があり,生徒の一人がこれに登ろうとしたので問題となった。運動場は十二分に利用され,盲人野球や鉄線リレー・相撲・その他も盛んに行われた。西大寺の会陽を見習い,背中合わせで「わっしょい!わっしょい!」と押し合いをしたのは,いまだに生々しく思い出される光景である。

昭和9年(1934)9月21日,室戸台風が荒れ狂い,校地は無事であったが,本館が南に傾いた。これに対し,私たちが後に突っ張りとよんだ鉄筋コンクリートの補助柱を,5千円の復旧費で教室の間に何本も立て,校舎の修理がなされた。さらにその後,かねて新築中の寄宿舎が完成したが,これについては悲喜こもごも,いろいろな話題が後に続くことになった。

わが国の大陸進行・南方作戦の夢は破れ,昭和20年(1945)6月29日夜間,B29による岡山空襲の際,生徒・職員の懸命な防衛により校舎の被害は免れたものの,悲惨な事件はやがておそってきた。昭和23年(1948),盲・聾義務制により,現地で学校は分離し,一つの校長室に二人の校長が机を並べるという珍風景がみられたが,私は葛山先生に長生きしていただいて,この席に座っていただきたかったと今も思う次第である。

昭和25年(1950)6月1日,盲児施設岡星寮が完成し,寄宿舎の生徒の入れ替えが行われたが,このことが半年後に思わぬ結果を生むこととなった。昭和25年12月20日午前2時,痛恨事は起こった。寄宿舎から出火し,聾学校寄宿舎生16名が猛火にまかれて焼死するという大惨事が発生した。おおが舎監長の「火事じゃあ!」という必至の連呼に,階下に寝ていた盲生は全員無事避難したが,2階に寝ていた聾生が命を落とすことになった。