「永遠に不滅の岡山盲学校」 柳島信男

その2 北方時代

岡山盲学校の校舎は番町に始まり,北方・西古松・原尾島と移転した。筆者は北方時代に入学したが,その前の番町の校舎を知っている。それは当時盲人協会の総会などが,番町校舎で行われており,筆者も出席会員の数あわせのために,強制的にこの会に動員されたことがあるからである。

校舎は木造ながらどっしりとした建物で,床には油が塗ってあり,土足の使用であった。2階に上る階段は螺旋状でなじみにくいものであった。会議室の椅子は3人がけで,もたれの後ろには折り畳み式の机があり,なかなかしゃれていた。

岡山駅からは,今でも走っている路面電車が城下で左右に分かれ,県庁前・後楽園入り口一番町憲兵隊前でさらに左に折れて進むと,右側に県教育会の建物が建っていた。これが番町校舎である。
筆者は前回の文で「私立岡山県教育会敷設盲唖学院」と記したが,これは「盲唖院」が正しいので,訂正しておきたい。

この番町時代,初代校長 関 新吾・2代校長 国富友次郎(県教育会副会長)・3代校長 吉塚濱太郎(県教育会主事)と続き,17年4ヶ月6日をもって幕をひいたことになる。

施設設備の貧弱,指導者の不足,指導内容のお粗末さ等,批判すべき点は多々あったとしても,そこはそれなりに工夫とファイトをもって克服していったと思われる節が残っている。 たとえば教室にござを敷いて,実技実習を行ったり,午前・午後の2部制,複式・複複式の授業など,いろいろな経験をした。

私立時代の卒業生は56名で,それぞれ十二分な活躍をしておられる。中でも第二回卒業生の景山兼松氏は,広島県府中市の郷里にあって「身障児の景山」として有名で,毎日の患者数は20名で打ち切るといわれており,受付の順番を取るために,午前3時ごろから患者が動くという盛況ぶりであった。(これらのことは,西古松の岡山県視聴覚障害者福祉センターが貸出中の 「思い出の録音全集」というデージー版に録音されている。)

また,当時の卒業生として唯一の生存者 山本仙之助先輩は,姫路市で95歳の高齢とはいえ,お元気なご様子を電話で確認することができた。(平成13年3月)

さて,またぞろ為けい会会歌を引用しよう。
「半田の山の緑濃く,旭の川の水清き,吉備の都の北境に,我が学舎はそば建てり」

かつて,この歌詞の作詞者 佐桑太郎先輩の勝間田町(現勝央町)のお宅を訪問した際,私が「番町時代は『ここ番町の一角に』と歌っていたそうですね」と尋ねると,「あれは私が吉備の都の北境に変えたのです」とおっしゃっておられた。

昭和2年(1927年)5月,「岡山県盲唖学校は北方の旧御野小学校後に移転した。以下,江口毅先生の文を引用して,北方校舎を説明する。

一番町から北に山陽本線の踏切を亘り,三野公園に通じる旭川の第二堤防を約1km進むと,その左下に目指す校舎は建っていた。校門は西向きで,西川の清流がこのあたりで東に向かってカーブして流れていた。校舎の廊下は南側にあり,教室は北側なので,やや陰気であった。旭川の鉄橋や水源地が近く,さらに蛍で有名な神宮寺山もあって環境には恵まれていた。ただ土手から舞い降りる砂塵には,いささか悩まされた。津山線の法界院駅も近く,通学には便利であった。水道はもちろん使用していたが,掃除のときなど,バケツを持って石段を下り,西川の水を汲んだものである。校庭も生徒数に見合った広さで,土手下にさっそく土俵をきづいて,肉弾相打つ相撲大会も行われた。ただ寄宿舎は,本舎が校内にあったものの,手狭なので校外に5舎まで民家を借り上げていた。
昭和4年(1929年)2月17日,筆者は岸本・田神両先生の勧誘訪問を受けた。筆者は祖父母の別宅にいたので,急遽呼び戻されて,自宅の店(当時わが家は府中中学の制服と紳士服の縫製販売を行っていた)で面会し,岸本先生に頭から上半身をなで回された。もちろん岡山の学校に入らぬかという勧誘である。

私たちは即答を避け,景山先生に相談した。広島県のものは広島盲学校に入学するのがあたりまえであると安易に考えていたが,福山からの距離は圧倒的に岡山が近い。それに瓜原という先輩も在学中で,面倒をみてやろうという話もあり,岡山盲入学を決めた。

昭和2年(1927年),筆者は入学の年を迎えたが,このとき父は厳格に宣告した。「府中東小学校に受け入れを頼んだが遠藤校長に折衝してもらちがあかず,さりとて盲学校に入学させるのも不憫であるから,当分の間家にいて,点字の読み書きだけは身に付けなさい」というのである。

そして広島盲に行って,「点字はやまなび」と点字器を求めてきた。「もう自由に遊ばせぬぞ」と父の特訓が始まった。最初の「あいうえお」は難なく記憶できたが,その後がさっぱりだった。そこで父は,銅板にくぼみをつけ,ベアリング玉を置いて教えようとしたが,指で触っているうちに玉が移動して,「か」の字が 「な」になったりする。そこで,今度は畳屋の鋲を求めて,点を固定させることに成功した。

かくして,点字をマスターしたので,毎日日記をつけることを言い渡された。また,毎日新聞社の販売店で,点字の教科書を購入してもらって,触読の練習も行い,すらすらと読めるようになった。しかし,点字を読むのは,左手の人差し指が理想であるということも知らずに練習は進んでいった。点字用紙には,洋服地のサンプル用の厚紙を使ったので問題が起きた。それは点字器の受け皿の磨耗であった。

昭和4年(1929年)4月6日,私たち3名(瓜原先輩・筆者・父の従兄弟に当たるただのうみのおばあさん)は両備軽便鉄道の1番列車に乗り込んで府中駅を出発し岡山に向かった。

学校に着いて「寄宿舎は?」と尋ねると,学校の外の第4舎だという。欄干無しの西川を渡るので,つごう6回川に転落するという記録破りの目にあったが,瓜原先輩と同宿できたことはむしろ幸運であった。

4月8日に入学式が行われた。当時の妹尾校長は,メタルをちゃらちゃら鳴らして歩かれるので,「号外」というあだ名もあった。点字を完全にマスターしていた筆者は,ここでやがて重宝に利用されることになった。

ようやく県立の学校になったとはいえ,妹尾熊男校長以下,専任教員11名・嘱託4名・書記1名・盲生30名・聾唖生70名という構成で,依然として複複式授業が続けられた。筆者が入学した頃は,小学部1・2・3年の3クラスが複複式で,担任は葛山先生であった。私は点字の読み書きは自由にできたが,すでに右手の触読に慣れていたので,左手読みに強制されたのには閉口した。その結果,宮本武蔵ではないが,両手読みになった。それを妹尾校長に見つかり,これがあたかも原則であるかのように吹聴されたので,いささか得意になった。

算盤は練習しなかったが,当時使用されていた英国製のウイリアムテーラーの計算機は,今考えてもよくできていたと思う。それにつけても,母方の祖父に九九を習っておいて助かった。

番町から北方に移動した主な備品は,オルガンと骨格模型だったと記録にある。北方に移って,御大典記念に,ドイツ製スタインウエイのグランドピアノを購入しているが,当時の購入価格は2600円で,同類のものは公会堂にしかないと聴き,誇りにしていた。そのピアノも今だに健在で,城東高校で使用中と聞いている。また,北方の校地内に植えられていた銀杏の木は,同窓会が経費を出して,西古松の本館東側の昇降口の前に移植したが,これまた,現在は芳泉高校に移されていると聞き,懐かしく思う。