「永遠に不滅の岡山盲学校」 柳島信男

その1 番町時代

母校岡山盲学校の校歌の一節に「あー番町の昔より高く掲げし愛の灯は、燃えて明るく世を照らす」と歌っている。また、生徒会「いけい会」会歌には、「昼は学科に知を磨き、夜は実地に技をする。」とも表現されている。これらは実に当時の模様をリアルに盛り上げていることに驚く。

番町と言えば、古くは江戸時代にも「番町で 目あき めくらに 道を聞き」と言う川柳も流布されているから、番町はよほど我々と縁が深いと思うのは筆者の思い過ごしであろうか。

明治41年(1908)11月25日に「岡山県教育会 付設 盲唖学院」は院長 関新吾(教育会会長)、指導責任者 平岩繁治先生等によってオープンした。新入生は盲生5名、聾唖生6名である。なお、明治39年2月25日に、山本幸平先生の手によって、岡山市上石井に盲唖学校が設立されたが経済難のため、同年12月に閉鎖のやむなきに至ったことを付記しておく。

さて、当初の「盲唖学院規則」を見ると、普通科と技芸科の二科を設置するとなっているので、はてな?と思う向きもあるかもしれないがなんのことはない、普通科とは「小学校4年課程」、技芸科とは「鍼按科」今なら「あはき」のことである。按摩のみの別科は設けられておらず、もっぱら師匠のもとで熟練して検定試験を受けていたのである。ついでに「いけい会歌」の一節の種明かしをするならば、按摩実技のレベルがある程度に達すると、仮免を学校が発行して按摩院を内山下に創設し、電話連絡等によって学費の一部を稼ぐことを容認されていたことを意味するのである。

明治44年の新年度から内山下小学校出身の葛山ひろし先生の着任によって名実ともに充実の一途を辿った。ここで、故 大賀薫先生の入学式の模様を引用してみよう。

「大正5年4月1日、私は初めて本校の門をくぐり、入学式に望んだ。狭い運動場では和服に袴を着けた幾人かの生徒が遊んでいるのを見て、なんだか変な気持ちがして別世界に入ったような気がした。鐘が鳴って会場の式場に上がってみると三十人足らずの生徒が二グループに分かれて着席しており、式が始まると羽織袴の二人の先生が前に立って式辞を述べられる。一人の先生は手真似で話され、訳のわからない手ぶり身ぶりをしておられるのが奇妙に感じられた。式が終わって点字板に鍼と鍼箱を買ってその日は帰った。」

ここで、盲教育を不動のものとした点字の導入について触れてみたい。世界各国の文化度を測定する場合、識字率が問題になるが、無学文盲ともいわれ文字の読み書きができぬ者は人間でないと酷評されることさえある。IT革命が云々される21世紀に視覚障害者は80パーセントの情報不足に陥るといわれている。ところが聴覚障害者も80パーセント不足だという。

いったいどうなっているのだと叫びたくなるが、つまるところ、情報なるもの視覚によろうが、聴覚によろうが、同じだということにすぎない。なんだか狐につままれたようだが、これ以上はわからないと言うのが真相だろう。

点字は、1825年フランスのパリ盲学校の全盲の教師ルイ・ブライユによって発案されたもので、何のことはない、最初からデジタルで何ビットかというと、三ビットで64種になる。点字は63種じゃないのかね?の疑問に対しては、0ー0の組み合わせはマス空け意味するから、点字の場合は必須な存在であることを忘れないでもらいたい。フランスが点字を認めたのは、彼の死後2年もたっており、これを世界に広めたのは英国のアーミーテイジであるから、冷たい仕打ちとも言える。
東京盲学校校長 小西新八先生の三度に及ぶ要請に応じて千葉県茂原小学校の訓導 石川倉次先生が転勤されるに及んで本格的研究が進み、ついに明治23年11月1日(1890)4回目の選定委員会において、石川案が採用決定となった。

その優秀性について触れておきたい。その第一点は触読に十分対応できることである。指頭における、二点として触知できる(最長)距離は2ミリメートルである。今、32マスの六点の距離を測定してみると、縦の間隔は2.25ミリメートル、横の間隔は2ミリメートル、文字と文字の間隔は3ミリメートルで心理学的にも合理性が認められる。

いささか横道にそれるきらいはあるが、筆者はハンセン病の方々が(点字を読むのに)舌読をされていることを知り、舌腺の触空間は1ミリメートルですから、感度においては問題無いとしても、「読書中に唾液が出ませんか」とお尋ねしたら、「条件反射というか、そのときは大丈夫です」と笑われてしまった。

日本点字が発案されて10年後に拗音の採用が導入された。このことは、点字は点字器で書く関係上、文字の大小の自由がきかず、むしろ、この点に関するかぎり、点字の方が優れている。

この時代における盲教育者養成の状況は岸本重太郎、大賀薫、森定政吉、石井慎一郎、寺門定範の5名が東京盲学校の師範部に進学し、万丈の気炎を吐き、母校の礎となっているが、西古松時代4名、戦後44名を数えており、記録的といえよう。

私たち先輩の夢の跡、番町校舎跡地は、今でも堂々と番町保育園として、幼児の育成の場として息づいていることを電話で確認することができた。用地面積821平方メートル、いつまでも、その繁栄を祈るや切なるものがある。